シン・ゴジラを体験する
【ネタばれ満載ご注意!】
シン・ゴジラって割と最近まで作られていることさえ知らず、トレーラーが公開されてもそれ程期待していなかった。
しかし、公開になってみると評判がいい。
期待して観に行ったら、その期待をはるかに超える出来!
しまった!
とりあえず観たくなったから、席の空いている小さいほうのスクリーンで観たのだが、大きなスクリーン、できればiMAXにすればよかった。
初代ゴジラが1945年(敗戦)を経て生まれたものならば、シン・ゴジラは2011年(東日本大震災)を経由して生まれたゴジラ。
巨大災害の発生と対策に右往左往する姿がLIVE映像のように流れる。
あの震災や、阪神大震災で、直接被害を受けた者ではない。(阪神では直後に現場に入ったが)
しかしTVから次々と流れる衝撃は深く深く私の身体に染み込んだ。
この映画を見たとき、あの衝撃と無力感がちらちらと顔を覗かせる。
あのときの無力感は災害の悲惨さに打ちのめされたものではない。
その抵抗の余地のない強大なエネルギーと、誰にもぶつけられないやり場のなさに自分の存在を見失いそうになった。
その圧倒的な存在に対する畏怖と無力感がこの映画の画面から出てこようとする。
発端は東京湾に突然発生した熱源と、その現場でのある人物の失踪。
当初は右往左往しながらも縦割りの権力社会そのままでぎこちなく進んでいく。
ヒロイズムや家族愛などというドラマ性を排除した形でテンポよくカット割されていく。
まだまだ単なる事故のレベルの認識から出ることのできないうちに巨大生物が現れて川を遡上、やがて上陸する。
ようやく想定外の事態になるも、なかなか現実的な対処に至らない。
捕獲するのか、駆逐するのか、東京都がどこまで対処するのか、国が決定するのか、自衛隊が出動するのか、都内で武器使用するのか等、すべて会議を開かなければ決められない、効率の悪さが現実に追っかけられてドタバタ劇が進む。
上陸した生物はただひたすら移動するだけだったが、突然変態して2速歩行をはじめる。
この第2、第3形態のおもちゃの様な姿形と、不自然な動きに違和感を感じる方もいるようだが、命の感じられないその姿と目が異様さを盛り上げて不思議な存在感を醸し出していると思う。
「千と千尋の神隠し」にでてきた化け物たちに通じるような存在感だ。
いや、非存在感というべきなのか?
そして映画は、ここにいたり、ようやく本気の武器使用命令の決断が下される。
しかし逃げ遅れた人を発見。
直前に攻撃命令は中止される。
なぜかここで巨大生物は海に戻ってしまう。
東京は一時的に平安を取り戻すが、被害に巻き込まれた街の静寂と被害のなかった街の何事もなかったような日常が入り混じる。
どんな災害が起きようと人は日常に戻らなければならない。
特に、被害を受けなかった人々は自分の安全を確保するかのように日常に戻ろうとする。
やがてゴジラと名づけられた生物は更に変態、巨大化して再び上陸してきた。
その姿は恐怖である。
自衛隊が総力をあげて迎え撃つ。
トレーラーで紹介された迫力の攻撃シーンだが、実はここまでは災害としてもまだ序の口だった。
全力を挙げた自衛隊の本気の攻撃だったが、実はゴジラには傷一つつかなかったのだ。
恐怖と絶望が広がろうとする。
ゴジラが歩く原子炉であることを知るアメリカが、安保条約を理由に強引に共同駆除に参加してきた時から、事態は我々観客でさえ想定外の規模の被害を生じる破滅的災害の様相になってくる。
B2によるバンカーバスター攻撃で、ようやくゴジラに傷をつけることができたのだが・・・。
ここらで、あぁそうだこの映画、庵野秀明さんの映画だったんだと改めて思い出させてくれる。
あの「セカンドインパクト」や「火の7日間」を起こした、庵野さんが作った映画だ、生易しい被害ですむわけがない。
一瞬にして日本は壊滅的打撃を受けることになる。
火が広範囲に都心を焼き尽くしてしまう。
何の前触れもなく首相以下11人の閣僚が失われてしまう。
後半は、いちいち書いていては収まりがつかないほどの展開と思惑がいっぱいになる。
以下、思いつくままに・・・。
ゴジラの恐ろしさを知った世界の各国はゴジラの消去を望み、国連安保理決議で東京への熱核攻撃を決定する。
日本側は歯噛みしながらも決議を承諾するが、実行にいたらせないためにも最後までゴジラを体内から凍りつかせるヤシオリ作戦の実現に全力を挙げることになる。
自然の脅威であるゴジラに対抗するには人間の作った最強、最悪の兵器である核でしか対抗できなくないと知ったとき、あきらめられない人々は自らを変えていくしかないことを知る。
「スクラップ アンド ビルド、そうやってこの国はのし上がってきた」
蹂躙され絶体絶命の状態になっても、ゴジラ同様、日本人も自らを進化させて立ち向かってきた。
世界の歴史と現況を見ると、日本人だけではなく、ヒトというもの、登りつめた後はスクラップの憂き目に会わないと、その先には行けないのではないかという気もする。
その先へ行けと、ゴジラはヒトにうながしているのか?
すべての手だてを失ったとき、旧弊を脱ぎ落とし、「好きなように」やってみることによって、次の世界を作って来たのが日本人だと、明日の日本への希望を繋いでくれる。
シンプルで原始的要素いっぱいの物量作戦である「ヤシオリ(八塩折)作戦」のヤシオリとは、日本書紀でスサノオノミコトが八岐大蛇退治に使った酒の名前だ。
日本誕生の物語になぞらえることが矢口たちの日本存続への決意であったのだ。
そこには太古の人々が甦ったかのような熱い情念がたぎる。
ちなみに、先日から疑問であった、WordPressのBootstrap対応テーマであるHabakiriの名の由来もこの映画を見てわかった。
ゴジラの口の中に凝固剤を注入するタンクローリー車の名称がアメノハバキリ01、02号。漢字で書くと天羽々斬!
テーマ名にHabakiriの名を使ったのがこれで納得です。
ゴジラはなぜただひたすら都心を目指すのか?
映画だから、都心まで行った方が見栄えがするというのはひとつの理由だがそれだけというのはありえない。
これだけ考証を重ねられた映画がその部分だけご都合主義になるという片手落ちはありえないでしょう。
しかも、いったん海へ帰ったのにまた都心を目指すというしつこさ。
象徴的な理由と、ゴジラ側の理由があるはずですね。
本編でもその疑問は語られるが確かな答えはないまま。
牧元博士魂説、英霊説、エネルギーに誘引されて説、いろいろとあるが今のところ、すっきりできる説明にはたどり着いていない。
そしてラスト、あの尻尾の先は何なのかという大きな謎を残してこの映画は終わります。
凍結され、残骸の中に立ち尽くすゴジラ。
いつ活動を再開するかもしれず、再び核の標的になりうるゴジラと東京は危険をはらんだまま共存しなければならない。
まさに、原発と地震と、そして福島第一原発と共存しなければならない日本の姿でもある。
役者に関しては何も述べませんでしたが、なにしろこちらも総勢300人以上。
300人以上が早口で迫ってくるので気を抜けません。
個々に語るには多すぎて、また誰かだけをピックアップするというのも難しいので敢えて述べません。
人の多さと台詞と固有名詞の多さだけでも2度以上見る必要のある映画です。
こうして書いている今も、実は先ほどまで2度目を見ていました。
夏休みのゴジラ映画だというのに子供が少なく、エンドクレジットが終わるまで誰も立たないという、StarWarsでもこんなことはないという、熱気の映画でした。